世の中の困ってる人達とか、義援金とか。
ガソリン節約のためカミさんの実家からチャリで春日部ららガーデンまで行き、アカホンで娘のためのチャイルドシートを物色したあと、マックでお一人様ランチ。
カウンターに此度の大震災の義援金募金箱が設置されていたため、そこにマックのお釣りで貰った小銭を全て投入し、プレミアムローストコーヒーを飲みながら思う。
(以下、まとまりもとりとめもありません)
日本は地震大国で、たびたび各地で震災が起こるたびに、こうやって義援金を募るのが習慣づいている国なわけだけど、こうした震災が起こる度に思い出すエピソードがある。
阪神淡路大震災が起こった当時、僕は小学5年か6年生だったと思うけど、やっぱり当時もみんなで復興を支援しようという共通意識があって、義援金の募金活動などが各地で盛んに行われていた。
そんな中、学校で前々から予定されていたユニセフ募金のお知らせが配布されると、生意気盛りのガキどもは口を揃えて、「ユニセフに募金してる金があったらその金を阪神復興の義援金に回すべきだ」と言い出し、自分たちが阪神を復興させるんだという妙な使命感に燃えていた。
(日々の報道にこれほど踊らされていたとは我ながら恥ずかしいが…)
そうした生徒たちの姿を見て、普段はめったに生徒を叱責する事のない担任の先生がいきなり怒鳴った。
「だまれ!!世界にはもっと苦しい思いをしている人達が何億人もいるんだ!!」
さすがに小学校も高学年になるとこの言葉が何を意味しているかは察しがつくようで、この瞬間、義援金の話題はピタリと止んだ。
数日間のテレビニュースだけを材料に作り上げた自分の近視眼的な発想を恥じると共に、人の幸不幸や平等不平等を死ぬほど考えさせられる思い出だ。
自分の生徒たちが「ユニセフなんか」と言い出した時に先生が感じたであろう失望感や、その言葉に憤り、我々の考えを改めさせるために怒号をあげなければならなかった気持ちを思うと、申し訳なさと感謝の気持ちで今でも涙腺が熱くなってくる。
世の中には電気もガスも水道も、雨風をしのぐ家や着る服、病気を治す薬や医者もなくて、毎日食べるものに困っていたり、病気のせいで毎日のように人が死んでいるという暮らしをしている人達がいる。
知識としては小学校の社会で習うくらい常識的なこと。
絶対的な視点で考えれば、阪神淡路大震災や此度の東日本大震災の被災者たちは、上述の人達ほどシビアな環境ではない。
服もある。雨風をしのぐ建物にも避難できる。寒いかも知れないが、毛布も一応ある。少ないながらも、食糧の配給もある。何よりも決定的に違うのは、日本の被災者にはそう遠くない未来に以前と同水準の生活に戻れるということがほぼ約束されている点だろう。
だが、震災の被害はトップニュースで連日の様に報道されるものの、それ以上に過酷な日常を過ごしている人達のニュースが全くと言っていいほど報道されないのは、世の中の思想が相対的な価値観に基づいているからにほかならない。
普段の生活から比べてどれくらい非日常的になったかという相対的な視点で考えれば、何もかも不自由のない生活をしていた先進国の人間が一夜にして電気もガスも水道もない非日常的な生活になった事の方が、普段から電気もガスも水道もない生活をしている人達の事より遥かに大ごとだという事になる。
べつに、世の中にはもっと困ってる人がいるんだから、少し冷静になって、被災地に義援金送る前にそういう人達の支援をしていこうとか、そういう事が言いたいわけじゃない。
もっと困ってる人の事は無視し続けてきたくせに、自分の国で困った事が起きた時だけ助け合いの精神を振りかざすのは偽善だとか、そういう事でもない。
僕が言う「もっと困ってる人」もそれはひょっとしたら先進国の人間の思想を押し付けているだけのエゴかも知れないし、その人が困ってるか否かはその人の主観によるものだ。
電気もガスも水道もないところで仙人のような生活をしていても何一つ困っていなかったり、むしろ文明にがんじがらめになって生きている我々を不憫に思う人だっているだろうし。
この人たち困っているだろうなって思って、いま自分にできる事をやるのは、それが仮に偽善や自己満足だったり、売名行為や政治戦略であったとしても、「助かります」と言ってそれを感謝する人がいる限りは、賞賛されこそすれど非難されることではないと思うので、堂々と胸を張って行えばいい。
ただ、自分の身内や、一族、国族、種族の困りごとには手を差し伸べるが、その外で起こっている事についてはいまいちピンときませんというのでは、なんかちょっと寂しい気がするのです。
義援金の募金箱にお金を入れる時に、少しでいいから世の中で困っている人の事を考えてみるとか、どうですかね?
冷めちゃったな、コーヒー。
もう帰ろう。
カウンターに此度の大震災の義援金募金箱が設置されていたため、そこにマックのお釣りで貰った小銭を全て投入し、プレミアムローストコーヒーを飲みながら思う。
(以下、まとまりもとりとめもありません)
日本は地震大国で、たびたび各地で震災が起こるたびに、こうやって義援金を募るのが習慣づいている国なわけだけど、こうした震災が起こる度に思い出すエピソードがある。
阪神淡路大震災が起こった当時、僕は小学5年か6年生だったと思うけど、やっぱり当時もみんなで復興を支援しようという共通意識があって、義援金の募金活動などが各地で盛んに行われていた。
そんな中、学校で前々から予定されていたユニセフ募金のお知らせが配布されると、生意気盛りのガキどもは口を揃えて、「ユニセフに募金してる金があったらその金を阪神復興の義援金に回すべきだ」と言い出し、自分たちが阪神を復興させるんだという妙な使命感に燃えていた。
(日々の報道にこれほど踊らされていたとは我ながら恥ずかしいが…)
そうした生徒たちの姿を見て、普段はめったに生徒を叱責する事のない担任の先生がいきなり怒鳴った。
「だまれ!!世界にはもっと苦しい思いをしている人達が何億人もいるんだ!!」
さすがに小学校も高学年になるとこの言葉が何を意味しているかは察しがつくようで、この瞬間、義援金の話題はピタリと止んだ。
数日間のテレビニュースだけを材料に作り上げた自分の近視眼的な発想を恥じると共に、人の幸不幸や平等不平等を死ぬほど考えさせられる思い出だ。
自分の生徒たちが「ユニセフなんか」と言い出した時に先生が感じたであろう失望感や、その言葉に憤り、我々の考えを改めさせるために怒号をあげなければならなかった気持ちを思うと、申し訳なさと感謝の気持ちで今でも涙腺が熱くなってくる。
世の中には電気もガスも水道も、雨風をしのぐ家や着る服、病気を治す薬や医者もなくて、毎日食べるものに困っていたり、病気のせいで毎日のように人が死んでいるという暮らしをしている人達がいる。
知識としては小学校の社会で習うくらい常識的なこと。
絶対的な視点で考えれば、阪神淡路大震災や此度の東日本大震災の被災者たちは、上述の人達ほどシビアな環境ではない。
服もある。雨風をしのぐ建物にも避難できる。寒いかも知れないが、毛布も一応ある。少ないながらも、食糧の配給もある。何よりも決定的に違うのは、日本の被災者にはそう遠くない未来に以前と同水準の生活に戻れるということがほぼ約束されている点だろう。
だが、震災の被害はトップニュースで連日の様に報道されるものの、それ以上に過酷な日常を過ごしている人達のニュースが全くと言っていいほど報道されないのは、世の中の思想が相対的な価値観に基づいているからにほかならない。
普段の生活から比べてどれくらい非日常的になったかという相対的な視点で考えれば、何もかも不自由のない生活をしていた先進国の人間が一夜にして電気もガスも水道もない非日常的な生活になった事の方が、普段から電気もガスも水道もない生活をしている人達の事より遥かに大ごとだという事になる。
べつに、世の中にはもっと困ってる人がいるんだから、少し冷静になって、被災地に義援金送る前にそういう人達の支援をしていこうとか、そういう事が言いたいわけじゃない。
もっと困ってる人の事は無視し続けてきたくせに、自分の国で困った事が起きた時だけ助け合いの精神を振りかざすのは偽善だとか、そういう事でもない。
僕が言う「もっと困ってる人」もそれはひょっとしたら先進国の人間の思想を押し付けているだけのエゴかも知れないし、その人が困ってるか否かはその人の主観によるものだ。
電気もガスも水道もないところで仙人のような生活をしていても何一つ困っていなかったり、むしろ文明にがんじがらめになって生きている我々を不憫に思う人だっているだろうし。
この人たち困っているだろうなって思って、いま自分にできる事をやるのは、それが仮に偽善や自己満足だったり、売名行為や政治戦略であったとしても、「助かります」と言ってそれを感謝する人がいる限りは、賞賛されこそすれど非難されることではないと思うので、堂々と胸を張って行えばいい。
ただ、自分の身内や、一族、国族、種族の困りごとには手を差し伸べるが、その外で起こっている事についてはいまいちピンときませんというのでは、なんかちょっと寂しい気がするのです。
義援金の募金箱にお金を入れる時に、少しでいいから世の中で困っている人の事を考えてみるとか、どうですかね?
冷めちゃったな、コーヒー。
もう帰ろう。
# by mischiro | 2011-03-20 16:45